今日は基本的にシュノーケリングツアーに参加予定。昨日の申し込みが遅かったため、今日になってみないと参加できるかわからなくて、8:30までにはご連絡できるとフロントの方は言ってたのですが、8:40になっても連絡がきません。そこでフロントに電話したところ「あ、大丈夫だったんで9:50ごろにフロントに来てください」とのこと。
そうでした。ここは沖縄でした。いろんなことが適当なんですよね。それに慣れなきゃ、いいかげん。
送迎を受けて港へ。船でポイントまで行って泳ぎ出したのですが、いや、もうほんとに素晴らしい。下にはおびただしい数の珊瑚が広がってます。すごい。どこまでも広がる真っ白な砂地に、まるで集落のようにサンゴがあちこちに固まってそそりたち、そのまわりを無数の魚が泳ぎまわる景色を見て、竜宮城ってこんな感じを表したかったんだろうなあと思ってしまいました。舞い踊るのはタイやヒラメではないけれど。
デジカメをハウジングして持っていってたのでがんばって水中写真を撮ったのですが、やはり素人がちょこっとやってできるもんでもなく、あとでパソコンで確認したらひどいもんでした。加工すれば少しはよくなるでしょうか。
しっかし全然バッテリーとメモリーカードが足りませんでした。まだ時間はあるのに途中でメモリーカードが尽き、やがてバッテリーも終わりました。へたくそなんだから数撮らなきゃだめなわけで、もっともっとたくさん撮りたかった、それがとても心残りです。
でもあんなすごい景色をダイビングもしないで見れるなんてすばらしい。ダイビングの免許をとるのはもう先送りにしてしまおう。ダイビングでしか見れない景色はたぶんたくさんあるんだろうけど、がんばってお金出して免許とってもしょっちゅうしょっちゅう行けるわけでもないし。その免許取る金でまた西表にこれるし。ガイドの人も、西表に来て以来ダイビングはしていないと言ってました。シュノーケリングで事足りるとのこと。
さて、シュノーケリングの中休み、パナリ島という離れ小島に行きました。そこのおじいさんおばあさんにもてなしてもらっての昼食。島には、立ち入ってはならない区画や聖域があり、観光で訪れた僕等が自由に行動することは許されません。ガイドさんの後ろをちょこちょこと歩きます。
この島、現在では10人くらいしか人は住んでいないそうなのですが、年4回大きなお祭りがあり、帰って来た人と観光客でそのときだけ人口は数百人にふくれあがるそうです。なんだかすごい話だ。最後の10人になってもこの不便な島で暮らし続けること、立ち入り禁止の聖域を守り続けること。(通常時は島の人たちも立ち入らないそうです)年4回の祭りでみなが戻ってくること。すべては彼等にとっては意味があり、侵さざるべき精神的な聖域があるんでしょうね。それはもう僕等はきっと現実としてとらえるのが難しいレベルです。
さて、ホテルに戻ってひとっ風呂浴びてご飯まで間があったので近くを散策。今回の宿は西表にいくつかある集落の一角にあるため、普通に民家の間を歩くこととなります。それも、文化としての沖縄風がフィーチャーされた家屋などではなく、台風が多いこの島で普通に生きてる人たちのちょっと頑丈な普通の家。そこの人たちのコミュニティにずかずか入り込んで彼等の気分を害するようなことがあってはならないと思うと、むやみにカメラとか構えられないです。ここの人たちは果たして観光地化が進んでいることをどう捉えているのかな。途中の民家に猫が寝ていました。幸せそうでした。そうか、幸せか、よかったね、と思います。僕もここで暮らしてみたいです。大変だろうけど。
西表に1年おきに通い始めてもう10年。この島もだいぶ変わった気もします。文明が流入して土地の人が便利に暮らすようになることと、島の文化や自然が失われていくことはどうしても二律背反な関係にあります。そしてそれは、それをもたらす張本人であるいわゆる都会の人間側の気持ちと現地の人間側の気持ちの間でも同様な構造が存在している気がします。難しい。
都会の人は、田舎はいつまでも田舎らしくと望みます。田舎の自然や文化は都会には残されていないものだから、せめて残っているものは大事に、と言います。でも田舎の人にとってはそんなの単なるノスタルジーに過ぎず、自分等の暮らしが便利になっていくことをなにより望むはず。それで衝突して解決しない環境問題に、過去何度か仕事で立ち会ってきましたが、どこも根本的解決は見ていません。それは本当に難しい問題かもしれません。話それましたが。
明日は星砂で有名な綺麗な海岸でまた写真撮影を試みます。うまくいくといいな。
さて今日もおいしいごはんでした。ラティーダ西表すばらしいです。次回くるとすればきっとまたここに来たいな。明日違うホテルに一泊して明後日帰ります。楽しめるのは明日一日。がんばらねば。明日もいいホテルだといいなあ。